昭和41年09月18日 朝の御理解
(?)、こちらに入らして頂いて(?)、
美しい心とか温かい心とかと申しますが、信心をさせて頂くなら、それにもう一つ、清らかな、清らかな心というのが大事だと私は思うですね。美しいと温かいという心と同時に、清らかでなからなければならない。神様に神饌物をさしてもらう、お供え物をさしてもらうでも、清めた上にも清めて、奉らしてもらうですね。この清めるということ、清らかであるということ。
もう随分前の話でございますけれども、日田に堀尾という先生がおられましたですね、もうそれも亡くなられましたが、あちらのご信者さんで選挙か何かの時に、選挙違反で警察のご厄介にならなければならないという人がおった。それでいよいよ一年なら一年、ならまあ刑を受けられるためにそのお届けに見えられた時に、堀尾先生が仰った。○○さん清まりに行くとばい、清まりに行くのぞと仰ったそうですね。
もう本当に、一年間、刑を終えて帰って来られる時にはもう、人間が二人見るように変わっておられたと。勿論、大変おかげ受けたという話を聞いたことがございます。それは監獄に行かなくても、私どもが様々な難儀を感じたり、窮屈な思いをいたしましたりする時に、そういう時が一番、私は清まるのに、清まりよいと思う、ね。今こそ清まる時だと、ね、清まりに行くのぞと言われて、本気で自分の過去を反省さしてもらうと同時に、濁りに濁り、汚れに汚れておった自分というものに気付かして頂いて、そのことを素直に受けられて、そして清まるということに一心になられたと。
御神誡の中に「腹立てば心の鏡のくもること」と仰る、ね。鏡なんかをきれいにふきあげたりしましたら、ああいう姿が私は清まった姿だとこう思う。くもきいっぺんない。ね。そのままの例えば姿なら姿がその鏡に映じます。曇ったり、汚れたりしておっては、ね、鏡そのものは立派であっても、清まっていないと陰が清らかに映りません。例えば、音色ひとつでも清い、清い音といったようなものがございますね。例えば琴の音というようなものやら、何とうなしに清い音を感じます。
まあよく頂くきでありましても、三味線なんかもやりますと、何か知らんけれど、こう浮いた感じがいたします。三味線が鳴り出しますと、何か知らん、座が陽気になってまいりますですね。そして、手のひとつでもたたきたいようなふうに気分がこう、うきうきとしてくる。琴の音なんか聞いとりますと、心が静まる。よく見ておりましても、その音色でも違うです。
例えばその職業と言った様なものが、粗末な衣服をまとって、そして言うなら汚いものを扱っておると言う様な商売だから清らかという事ではない。問題はその人の心なんだ。例えばなら私どものように、こうして紋付袴でもつけておるといかにも、清々しい清らかな紋付姿、紋付袴の姿というものはそんなふうに感じるですけれども。問題はその中身なんだ。それこそ畑で肥えをかけておろうが、ご神前にぬかずいておろうが羽織袴をつけておろうが、その人の中身が清まったものでなからなければなりません。
それには、やはり私どもは油断をいたしておりますと、すぐ汚れる、すぐ曇る。ですから曇ったら、汚れたらすぐそれを清めさして頂こうとする努力というものをいたしませんと、いよいよ、濁ってしまいます。どんなに澄み切った水でもコップが汚れておったら、それはもう清らかなものを感じることができません。どんなにコップが綺麗であっても、水が濁っておったら、もちろん、清らかに見えません。
神様もやはり美しい心とか、温かい心とかということがお好きであり、お喜びであるといたしまして、やはり清めた上にも清めてと申しますように、第一に私どもの心がです、清まらなければいけません。おかげは和賀心にありと、和らぎ賀ぶ心にあると。その前提として、まず私どもが清まらして頂こうとする精進が必要です。清廉潔白な人と。清いところに魚が住まないといったようなことを申しますけれども、清い心の上に、例えば私どもそこんところをよく間違えます。
心の小さい人、非常に神経質な人、ちょっとそこへんが散らかっておっても、私どもはもう特にその、そういう神経が小さいですね、そういうのが清潔、言わば、あの清潔好きな人が清らかな人とは限りません。例えば、巻寿司なら巻寿司にこの中の芯が少しばかり入っとる。そういうものを潔癖とかそういう心の人を清潔だという、そういう人のところには魚も住まなければ、おかげは受けられません。んならお寿司に沢山の具がこう入っておる、からそれは清らかな感じという感じだけではいけん。
感じだけならば、ね、例えば先ほども申しますように、紋付袴でもつけておきゃあ、こう清らかに見えるのでございますけれども、中身が清らかでなかったらだめですから。ですから、その大きな豊かな美しい心、しかもそれが清まらして頂く、清まるということにいつも焦点を置くこと。まあ今日は私、いろいろなことを申しましたんですけれども、そういういろいろなことを今日は私、頂いてから、ははあ、清らかな心といったようなことを椛目ではあまり、私言わなかったことに気付かしてもらった。
そして世間一般では、心の小さい、心の小さいってよく言われる、もう寿司に具がちょっとしか入っていないといったようなのを、まあ清潔な人とか、というふうな、いうような感じがする。中に具が沢山入っておったら、それをじゃないようにいうようなこの見方をするむきがある。そんなもんじゃないと思いますね。信心で言う清らかな心というのは、魚も住む、ね、おかげも頂けれる、お徳も頂く。
そこで私共がその清らかな心であるかどうかと言う様な事を自分で自問自答し、又は反省さして頂く為にです矢張り心の美しい人は矢張り、皆が美しゅう見えますと私は思う。心の清らかな人は、矢張り皆を清らかなものと見る。悪い事ばっかりをこそこそしておる人はです、皆がこそこそ悪い事をしておる様に見える。やれあげな事をしとりゃせんだろうか、あげんしよるごたるというふうにばっかりしか見えん。
だから、それよりもね、やはり、見えるとするならです、私の心の中にそれと同じような清まったものがないと、きれいなものがないとまず悟らしてもらって、そういう心に私は取り組んでいかなければいけないと思う。神様が喜んで下さる、温かい、ね、豊かな大きな心を喜んで下さるということと同時に、清らかであるということを神様は喜んで下さる。いや、清まったものでなからなければ神様に対して、相すまん。私どもの心を奉らしてもらう。私どもの心が神様に通う。
通うのはそういう美しい心、清らかな温かい心で通いましょうけれども、通ったものがその清らかでなかったんでは神様に対してご無礼にあたる、ね。どんなにおいしい、なら物でもそれが洗いもしなければ清めもせずにお供えをしては神様にご無礼を感じるように、私どものそのいよいよ、温かい豊かな心というものを神様にお供えすると同時に、それが清められておるというところにおかげを頂かなきゃならん。
そしてその一番、清めよいのは、私がいよいよ窮屈な思いをすると、愈々難儀を感じる時。一番私は清めよいのではなかろうかこう思う。私はあの清まるということ、清めるということについてあんまり、あんまりと言うか、本当に申してこなかったように思います。限りなく美しゅうなろうばっかり言うてきましたけれど、ただ美しいというだけではいかん、それがやはり清まったものでなからなければならんということですね。
どうぞ。